『パリデギ』を読みながら、ふと奇妙な感覚にとらわれて、そばに寄り添うものの存在を感じることや、意識がはるかかなたをさまようことがあった。といっても祖母やチルソンの面影を思いえがいたり、茂山の山並みを思いうかべたりしたことを言っているのではない。物語の世界にのめりこんでしまったのではなく、むしろその正反対の体験だった。
少女パリの流転の旅は、数年間のできごとが瞬く間に展開する。母や姉たちと離ればなれとなり、たどり着いた中国の村では人目を避けての山の穴暮らし。父が去り、頼みにしていた祖母や愛犬のチルソンにも先立たれてしまい、一人ぼっちになったパリはふたたび居場所を失う。一家を襲った不幸は、現実の北朝鮮の多くの人々が味わった辛酸であり、張りつめた緊迫感は胸にせまる。パリにはさらに密航を強いられロンドンへ漂着するという運命が待ち受けている。
とはいえ、いくら悲惨な体験が描かれていても、この物語は読者の涙腺に訴えかけるおきまりのお涙ちょうだいものではない。波乱万丈の生涯をふり返りながらも、語り手のパリは感情の昂ぶりを抑えて、簡潔な描写に徹しようとしているのがわかる。終盤になって、まもなく一歳になる娘ホーリヤを失うという痛ましい事件に遭遇するまで、悲嘆にくれ、打ちひしがれるパリの姿に出会うことはない。かといってそれまでのパリが感覚を麻痺させていたわけでもない。運命に翻弄されながらも、祖母たちの霊の力を借りて、自分を見失うことなく生き抜いていく。
この素直な語り口のおかげで、私は読み続けるあいだ、過度に感情移入することなく、畏敬の念をもってパリを見守り続けることができた。そして読み進めるうちに、私の傍らに寄り添うようになったもの、それは私自身の人生の断片や幻影だった。パリの数奇な運命には比べようもないが、意識の底には数十年分の記憶が沈殿している。物語の描写に触発されて、あれこれの過去たちが息を吹き返して、ページをめくるたびにまとわりついてきたのだ。それらの息づかいのリアルさに、思わずパリの霊力の仕業かと疑ったほどだ。
本を読みながら思いうかべる情景、脳裏にうかぶ像は、元はといえば、映画やテレビ番組、雑誌で目にしたはずの北朝鮮や中国の村、ロンドンの画像、あるいは無関係な記憶の風景や人物の寄せ集めだろう。その抽出、合成の過程で、記憶領域のどこかが刺激されるのかもしれない。この意識下の連想ゲームが、私の過去の亡霊たち、たとえば子どものころの引越し、父の死去、渡航、消滅する前の東ドイツでの暮らし、結婚といったものをよみがえらせたのではないか。物語のなかを見渡すだけでなく、私の心まで照らしてくれる澄んだまなざしのおかげだとすれば、それはたしかにパリの力だ。とにかく書物とのこのような出会いはめったにあるものではない。
訳者の青柳さんの「あとがきにかえて」を読んで、作者の黄晢暎さんが、ある意味パリにも負けないほど起伏に富んだ半生を送ってこられたことを知った。作者もこの小説を書きながら、自分の人生のあれこれを身近に感じ続けていたのではないだろうか。文字による描写をつづけながら、自分の人生の実感を片時も忘れることはなかったのではないか。そう想像すると親しみをおぼえる。
死者の霊と語り、身体に触れただけでその人の過去を見通すことができる不思議な能力のおかげで、パリは生き延びることができた。彼女らしさを保つことができたのも、祖母やチルソンの霊が道しるべとなってくれたおかげである。「なぜパリだけが生き延びることできたのか」「なぜパリは試練の半生を送ることになったのか」こうした素朴な疑問にたいして「運命に選ばれた存在だったから」と答えることは可能だ。超能力とそれに見合った宿命との巡り合わせに納得してしまう読者も多いだろう。そこからファンタジーの世界への跳躍はたやすい。こうしたことがベストセラーになったゆえんかもしれない。「生命水」を探しに行くという巫俗説話『パリ王女』からのモチーフも、ファンタジーと親和性が高そうだ。生命水を持ちかえることができず、ご飯を炊く普通の水がそれだったと気づく結末も、メーテルリンクの「青い鳥」の寓意を思いださせる。
しかしこの作品をいくらか注意深く読めば、こうした分かりやすさを超えた魅力を秘めていることに気づく。すこし視点をずらしてみよう。作中の人物であるパリは、この手記をつづっている語り手でもある。作者は語り手パリに説明をくわえていないが、語るという行為は無色透明ではあり得ない。だれが回顧録を残そうとするにせよ、どのエピソードを採用するかを選択し、どれだけ詳しく説明するか省略するかは書き手の主観による。無意識のうちに誇張を加えることもあるだろう。記憶そのものも年月を経るうちに、ところどころ変質してしまっているかもしれない。一人の少女の体験というには、あまりにも膨大で強烈なエピソードの数々、そのなかから語り手パリというフィルタをくぐり抜けて書き残されたのがこの物語である。パリの誠実さを疑うわけではないが、叙述されていることをすべて客観的な事実だと見なすのは、むしろ不自然ではないだろうか。
このような仮定から推測してみる(あえて誤読、異読を試みるのも読者の特権だと信じて)。夢のなかで死者の世界をのぞき見たり、人の過去を透視したりすることができるパリの能力。この超能力とも呼ぶべきものは、もしかしたらパリの並外れた「想像力」を、語り手パリが作者の意図にしたがい、誇張して描いてみせただけなのではないだろうか。
なにしろパリは高祖母からの巫女の血を受けついでいる。巫女や恐山のイタコといったシャーマンたちは、だれもが超能力者だというわけではない。霊と交感したり病気を鎮めたりといった行為のおりに見られるトランス状態も、薬物や自己暗示でもたらされる場合がある。とはいえ素質がものをいう。さらに経験をつみ、想像力をつちかうことで、熟達するのだろう。お祖母さん子だったパリは、持って生まれた素質にくわえて祖母の傍らで育つうちに、その技を身につけたにちがいない。それならばパリが書き記す物語に、巫女の語りにあらわれるような飛躍がまぎれこんでいても不思議はないと思える。
祖母からくり返し聞かされた『パリ王女』の力も大きい。この話を思い出すことで苦難のただなかにあったパリが、慰めを得たことはまちがいない。説話の主人公に自分をなぞらえ「生命水」を探しに行くという使命を果たす自分を空想して、勇気を奮い立たせたこともあるだろう。こうした心のうちでの反応のすべてが、パリの内面においては真実であったと呼んでもよいかもしれない。
パリの「能力」を「想像力」の範疇に押し込めようとする試みは、パリを矮小化することになるだろうか。私はそうは思わない。「あとがきにかえて」のなかで引用されている「戦争と葛藤の現代世界に対し、文化と宗教、民族と貧富を越える、多元的な調和の可能性を模索したもの」という作者の思い。それを現実の世界でかなえるために欠かせないのが想像力だからだ。世界中の人々が、他者にたいして想像力を働かせ、親身な共感をよせることができるようにならない限り、さまざまな差異を乗り越えて「多元的な調和」が得られることはない。テレビの画面に映る隣国の悲惨な状況を、CMまでの「かわいそうね」(自分のことでなくてよかった)で終わらせないためにも、そういう状況を生み出した歴史を見つめなおすためにも、想像力は欠かせない。
それならば、きわめて限られた人しか持ち得ない超能力にどれだけ価値があるだろう。だれもが潜在的に秘めていて、はばたかせる可能性をもっている想像力こそ重要であるはずだ。想像力は他者との垣根を越えるために役立つだけでなく、危機を乗り越えるための力も与えてくれる。不安が人を押しつぶそうとするときの対抗手段でもある。想像力を欠いていては、自尊心をかなぐり捨てて、あらゆる策を弄して生き延びることができたとしても、自己を見失ったことを後悔することになりかねない。そう考えると、パリデギが人々に分け与えてくれる「生命水」とは、想像力のことではないかと思えてくる。
過去をふり返りながら物語を書き進めていくパリの意識の流れと、物語の中でさまざまな経験を積み重ねていくパリの描写という二重性。自分とはまったく異なった人物像の人間を主役にすえながら、迫害、亡命、戦争といった体験を一人の少女の人生に投影するという複眼的な小説作法。読者である私が物語の情景の向こうに、自分の過去の気配を感じ取り、筋道を見つけようと苦心しているのも、パリの人生、黄晢暎氏の人生に重ね合わせることができる何かがあるからかもしれない。それは私にかぎったことではないはずだ。
生まれてから百日すぎても名前をもたなかったパリは、家を明け渡して一家離散の憂き目に会うとき、ふたたび「私たちに関しては何の紙切れもなく、名前すらなかった」という状況に追いやられる。このことは「パリ」という名前の象徴性をよくあらわしている。たとえ語り手パリから「パリ」は本名ではない、この手記のために借りてきた仮の名前だと聞かされても、私は驚かないだろう。パリという名前は、多くの北朝鮮で逆境にあえぐ人たちや脱北者たち、密航者、世界中の家族や愛する人と離ればなれになって苦しむ人たちすべての名前だと思えるからだ。そして一読者である私もまた、過去と向き合おうとするとき、一人のパリではないのだろうか。 |
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